町田宗鳳『法然の涙』講談社、2010年

 昔、疑問に思っていたことがあった。「どうして罪なき者がこんな酷い目にあうのか?」この問いに対して法然は「その意味が分かるときが来る」という。あるいは「曲がったことでもまかり通ってしまうのは、この世のつねですから、私はそれほど気にしておりません」とさらっという。

 タブラ=ラサという言葉があるが、しかし生まれつきの人間のこころは決して白紙ではないと思う。仏教的に言えば、宿業ということになるのだろうか。人はある特殊な状況に生れ落ち、物心ついたときにはすでに様々なご縁を結びながらその運命のなかを生きている。

 だから原理的に/科学的に物事を考えるということと、現実の/自らの人生を生きるということは自ずと違ってくる。

 それゆえに自らの行いをよく反省することは大事だが、たとえ一見自らには非のないと思われる不本意なことが起こったとしても、それを笑い飛ばして限られた人生をせめて世のため人のために役立つようなお手伝いをしながら、明るく元気に生きていきなさい、という法然上人のお言葉が念仏の声とともに聞こえてきそうである。宮澤賢治が言った「デクノーボーになりたい」というのもほとんど同じ意味ではないだろうか。おのれを愚者と考えるものの強さがそこにはあるように感ずるのである。

 著者の町田宗鳳氏は比較宗教学者であり、『風の集い』http://home.hiroshima-u.ac.jp/soho/を主宰している。それは、「みんなが気楽に集まって、気楽に語らえる場所」であり、氏の提唱されている「SOHO禅」(「ありがとう呼吸法」・「感謝念仏」・「観音禅」)で心身を大掃除しつつ、参加者で語り合いご縁に感謝する会なのである。

 町田氏は14歳で出家され34歳で渡米留学。ハーバードやペンシルベニアで学ばれプリンストンで教鞭をふるい、その後マレーシアの大学、東京外国語大学を経て現在、広島大学の教授をされている、というとてもユニークなご経歴をお持ちだ。そのあたりは『文明の衝突を生きる』(法蔵館)に詳しく書かれているので、興味のある方はご一読を。

 体当たりで人生を切り開いてきた方で、自らを「肉体主義者」と書かれている。先日、京都でお目にかかったときも、「身体感覚を解放し、頭で考えずハートで感じなさい」とおっしゃった。そのような身体性を大切にした研究のみならずライフスタイル、社会活動はこれからの私たちの生き方を考えるうえでも、大きな示唆を与えてくれるにちがいない。『法然の涙』は小説であるが、町田氏自身の生き方から生まれたひとつの哲学書とでもいえそうである。

 最後に、上述の『文明の衝突を生きる』から一節を引用してこの雑文を閉じたい。
 「本当は誰でも、何の煩いもなく安穏な生活を続けていきたいのだが、人間というのは危機 的な状況の中で試行錯誤しながら、全身で生き抜いていく時にこそ、自分の人生に珠玉のよ うな物語を作り上げることができるらしい。そして、そこに誕生してくるのが、自分の哲学なのである」。