大阪府の国歌斉唱条例で考えたこと

 大阪府橋下徹知事が代表を務める「大阪維新の会」(維新)府議団が提案した府施設での国旗の常時掲揚と、府内の公立学校の教職員に国歌斉唱時の起立を義務付ける全国初の条例案が3日に府議会本会議で可決、成立しました。これについて考えたことを少し書きます(個人的には少しどころか多いに考えなくてはならない問題だと考えます)。

 6月4日の産経新聞の記事によると、橋本知事は「教育行政、教育現場の大きな時代の転換点。国歌の起立斉唱だけが問題ではなく、職務命令に組織の一員である教員が従うという当然のことをやらなければならない。これまでの個人商店的な教員を、学校組織の一員としてみる第一歩が踏み出せた」と話したそうです。

 私はこのコメントに違和感を覚えました。「国歌の起立斉唱だけが問題ではなく」という部分。国歌の起立斉唱の問題は、「職務命令に組織の一員である教員が従うという当然のこと」という論点と同列で論じられるべきではないでしょう。

 国歌は国民統合の象徴ですが、同時に明治以降の捻じ曲がった天皇崇拝を宣揚する「君が代」は法制化されているにしても、国民主権や信教の自由を保障する観点からも、かなりデリケートな取り扱いが求められるからです。

 現実に、戦前の日本の侵略行為を想起し苦しい思いをする人もおられるはず…。伝統的と感じている人もおられるでしょうが、それはほとんど明治新政府によって創られた伝統であり、近代的国民国家、とりわけ天皇を頂点とした大日本帝国の形成に利用されたものなのです。現役の教員は、すでに戦前の学校教育で過ちを犯したという意識をもっていることはないはずですが、そのような構えは先輩教員から受けついだ貴重な遺産というべきです。繰り返しますが、こうした「国歌の起立斉唱」の問題と、「行政改革」/「学校改革」といった論点を同一に論じることはできません。

 国歌の起立斉唱について児童・生徒に強制させることはないといいますが、教員がそれを強制させられているところを目の当たりにする児童・生徒という構図を考えれば、その教育効果が大きなマイナスになるであろうことは、想像に難くないのです。本来、国歌は国民が素朴な敬意と親しみをもって歌うものでしょう。国民投票をして国家を制定するという議論もあっていいですね。

 もちろん、万人が納得する国歌など存在しないのだし、受け入れられない人が事実上強制されるのは当たり前という意見も出てくるでしょうが、だからこそ起立斉唱しない選択を保障するということもあってしかるべきなのです。

 ひとつの国民国家を敬愛するというのは、国民の公民意識を育てることであると喝破している内田樹氏に少なからず共感します。内田氏は、「アメリカ合衆国最高裁は「国旗損壊」を市民の権利として認めている。自己の政治的意見を表明する自由は国旗の象徴的威信より重いとしたのである」と紹介していました。

 権利ばかり主張して義務を果たそうとしないといわれるかもしれないが、道徳的/倫理的な理想と公権力というものに対する構えは異なっていいはずです。そしてその観点でいうと、むしろ橋下知事は児童・生徒たちの公民意識を内発的に高めるための教育改革についてのポジティブな提案を、ほとんどしていないように見えるのは私の見落としでしょうか?(ちなみに、このような提案があっても、知事自身は、公民意識を内発的に高めるなど理想論でしかありえないと一蹴されるのでしょうけれど)。

 知事の「個人商店的な教員」、「学校組織の一員」という言い方には彼の教育観や社会観がよく表れていると思いますが、ここではそれについて論じません。ひとつ私個人としていいたいのは、「教員とは個人商店的」なものでなければならず、その民主的な(この形容が良いイメージにないことが辛いが)共同体が学校ではないかということに尽きます。とにかく上意下達の押し付けは、寛容の精神や創造性の発揮を抑え、やがては形式主義に陥ってしまう。思考停止を強いることになり、ますます学校現場を貧困化し、解体させていくだけではないでしょうか。