目に見えないもの

  先月の文化の日北國新聞の第2回赤羽萬次郎賞入賞者の特集ページに拙稿(佳作)が載りました。
ここに転載しておきます。ご高覧いただければ幸いです。
それにしても、震災から9か月。それ以外にも、今年は紀伊半島大水害(台風12号)など自然災害の多い年でした…。


  「目に見えないもの」

  昨年は、怪談ブームに沸いた年だった。柳田國男の『遠野物語』刊行100年に当たったことや、NHKの「ゲゲゲの女房」で話題となった漫画家・水木しげるの描く妖怪が脚光を浴びたことなど、枚挙に暇がない。

  水木しげるもそうであるが、柳田という人物、その学問からインスピレーションを受けた人は少なくない。『遠野物語』を絶賛する書評を書いた泉鏡花(1873〜1939)もその一人だ。鏡花と柳田は、怪談好きだった。お互いに尊敬しあい、生涯にわたって交友を結んでいたことは、よく知られている。

  金沢市下新町に生まれた鏡花(本名・鏡太郎)は、錺職人の父と、鼓打ちの家の出身である母とのあいだで、研ぎ澄まされた美的感性を育んだが、幼くして母を亡くしている。1891年に憧れていた尾崎紅葉の門下生となるが、それまでの幼少年期を過ごした金沢というまちが、鏡花文学の幻風景となった。幻風景というのは、生者と死者が対峙する夢幻能を髣髴とさせる、耽美的な虚構世界のバックボーンというほどの意味である。その不思議な魅力を柳田は、こう述べている。


   日本の如く俗に云う神隠し、女や子供の隠される国は世界中余りない。これが研究されて如何なる為めか解ったならさぞ面白いだろうが、今の処研究されていぬ。
   また同じ日本にしても、この神隠しの非常に多い地方と少い地方とがある。金沢などは不思議に多い地方で、私は泉鏡花君の出たなどは偶然ではないと思っている。(「怪談の研究」)

  ここには、金沢の風土に対する柳田の関心と、そうしたトポスと不可分のものとして鏡花という存在がとらえられている。一方、鏡花自身は、「故郷の自慢は人物や人間ではなく、私はその自然と民謡に、微かながらも或る種の矜りを感ずるのである」(「自然と民謡に」)と述懐している。人間に対する懐疑だ。あるいは、非人間中心主義。もしかしたら鏡花は、自然に対する畏敬の念を消失させる、近代化という名の悪魔に抗っていたのかもしれない。

  2011年3月11日に起きた東日本大震災では、自然が荒れ狂ったと同時に、原子力発電所での事故が放射能の流出をもたらした。母なる海が、大地が、汚されてしまったのである、目に見えない放射能によって。まさに目に見えない存在を軽んじた私たちは、まことに手痛いしっぺ返しを受けたのである。鏡花の嘆息が聞こえてきそうな気がしてならない。

  こうした時代のなかで、ふるさとの振興に求められるのは、いわゆる都市計画でも観光振興でもなく、目に見えないもの、小賢しい人知をこえた、非合理の剥き出しの自然を感受する心ではないだろうか。その心のなかに映ずる風景を見つめるとき、もうひとつの世界が必ず現れる。そのとき、私たちは異界へのとば口に立っている。